ピカソと幼稚園の子の描く絵に違いはあるのか

今日は朝から商業と個人制作のアートワークの違いについて考えてた。今まではこの二つの境界を大分曖昧に捉えていた。同じ絵でも描く人と見る人とそれを取り巻く環境が変われば、その絵の定義も変わるし違いは金銭のやり取りの有無くらいだろうと。今思うとかなり馬鹿な発想をしてた。おそらく本当の違いは人や環境などの違いではなく、描く絵に対しての姿勢の違いの話なのだろう。
ミセスの大森元貴がいつかのインタビューで、「ミセスの曲は人前に出すように作った料理で、ソロの曲は自分のために作った料理をみんなが食べられるところに置いただけ。共通するのは全員が楽しいと思える曲(料理)にすること。」と話していた。
これを踏まえて、自分の描いた絵を見返すと、ほとんどがどっちつかずの意図不明の絵にしか見えなかった。普通に考えて、伝えたいことが”わからない”絵は致命的だ。受け取り手(観客)の解釈が異なることはあっても何も伝わってないことはあってはならないはずなのだ。やはりコンセプトのない絵は駄作にもなれないなと思った。コンセプトや動機は大事。
この言葉を聞いた後だと、依頼イラスト・個人制作関係なく絵を描くときの姿勢がかなり変わる気がする。違いは人前に出すように盛り付けるか否かくらいの話だった。実際に書き起こすと当たり前のことじゃないかと思うが、その本質を全く理解できてなかった。そして、共通して描いてる本人と見てくれた人たちが楽しいとか悲しいとか、ちゃんと感情が揺さぶられるものにすることを意識しないといけない。
最近ミセスの歌やインタビューから表現する人として大事なものを教わることがすごい多い気がする。何を思って、どんなものを、誰に向けて、どんなふうに表現するべきなのか。わかりやすい正解はないんだろうけど、一個一個自分なり咀嚼して作品に昇華できたらなぁと思う。次に何を描くかは決めてないけど、小手先で進めて理屈っぽい絵にならないようにだけは気をつけたい。