言の端

好きな配信者が数年前に「”言葉は額縁である”ことはわかるけど、言葉を使うのをやめられない」ということを呟いてた。

当時はあまり意味がわからなかったけど、最近になってやっと自分の中で咀嚼できてきた。

おそらく、「言葉(額縁)は発する人(作品)を定義づけ他者(現実)と境界を作るものだから、多用はしたくない」ということだと思う。

つまり、自分の発する言葉は良くも悪くも「自分はこういう人間だ」というカテゴリを対外的に示すツールになる。

名は体を表すというが、言葉もその人を表す一つの媒体になのだ。

そして、その言葉(額縁)と人(作者)についての解釈は、鑑賞者それぞれに委ねられる。決して自分の意図した通りに解釈されるとは限らないし、一度言葉が作者の手元から離れてしまえば、元に戻すこともできない。そしてその解釈について作者は、干渉すべきでもない。作者にできることは、次の額縁を選ぶことだけなのだ。

自分はどんな言葉を使いたいのか、どんな言葉が好きなのかを考えてみた。

作家では、三秋縋さん(小説家)や最果タヒさん(詩人)の使う言葉は特別好きだなと感じる。

これは歌の歌詞でもそうだが、直接的な言葉より間接的な表現の方が美しく感じる。隠喩や詩歌でいう余情のようなもので、夏目漱石の「月が綺麗ですね」も分かりやすい例だと思う。

直接的な言葉は伝わりやすいが、同時に言葉を安売りしてしまってるような気もする。伝わればいいだけの言葉は相手にもそれ相応にしか伝わらない。それに解釈の余白がないのも好きじゃない。相手の言葉を読み取ろうとし、相手にも自分の言葉を読み取ろうとしてもらう。それが一番いい言葉のやり取りだと思う。

絵においても通ずることではあるが、分かりやすく言わないことや描かないことの美しさが世の中にはあると思う。

自分の中では、日々日々綺麗な言葉を使おうと心がけているがなかなか思うようにできない。

今日の話で言えば額縁は使えばいいと言うものでもない。無駄に使えば使うほど、自分の言葉を安売りしてしまうし周りとの境界も濃くしてしまう。

バカとハサミは〜というが、言葉も使いようなのだ。

明日の自分がどんな言葉を使うか分からないが、今日よりマシになってればいいなと思う。

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